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2011年3月以降、ちょろちょろと書いているところですが、備えておく気持ちをまたしても年初から書いておきます。
■過去を鑑みての所感
見返してみるとそれ以前は防災関係についてはほぼ記事にしていなかったようです(若干乾物とか缶詰とかの記載がある程度)。
そもそも技術的な、できればプログラム関連について書こうと思っていたからということ、加えて自宅が地方の畑、井戸ありの三割~半自給生活であったこと、それ以後も七割はその自宅生活であったため備えるよりも身軽な生活に重点をおいていたことによるのですが、やはり一回り意識が強くなったことは否めないところです。
一方、当方、25年ぐらい前の幼少のころより、カンパンや缶詰食品が大好きであり、干物も好きであり、つまりは保存できる食料が好きでありました。
その後も、おでんの缶詰や平たいパンの缶詰(マフィンタイプとかいうやつ)、ボローニャのパンの缶詰(缶が転がっていたのでみてみたら賞味期限が2011年12月でした。さすがに新しい。こいつは賞味期限は製造後2年のようです。)、も結構出始めのころに実家で試しに食しておりました。缶詰乾パンの容器はペン立てにしておりました(その後引退)。ボローニャのパンの缶詰はいまだにペン立てになっております。
非常用トイレ等も100均でみかけては車に入れるなどもする、ラジオもライトもいくつか入手。阪神大震災のこともあったのでしょう。私個人はまだ少々幼さもあり、遠方でのできごとということもあり、東日本大震災ほどの精神面への影響はうけませんでしたが、社会的には保存食の発展や、備蓄への考えなどが進んだように思います。
本の付録に災害への備えのようなハンドブックもありました(備蓄のほか、怪我の応急処置などが載っている)。
私はといえば、ラジオ、懐中電灯、筆記具、ロウソクを入れたバックを小学生・中学生の頃に手元おいていました。これはまあ上記のとおり、影響が薄いため怖れではない感覚ではありましたが。どちらかというとキャンプのような気持ちであったかもしれません。
太陽電池と乾電池の両方がつかえ、さらに手回しでの発電もできるラジオライトなるものが3000円程度だったかと思いますが20年弱ほど前に入手しており、いまだに使用可能であります(充電池はニッカドでそろそろダメだと思いますが)。
ライトやロウソクは地震災害というよりも、当時の自宅ではまだまだ停電が多くあったことへの対応の意味があったように思います。それこそひと夏に10回ぐらいは停電があったのではないでしょうか。夕立の強い雷での停電は長いときもありましたから夕飯時に停電して、ロウソクでの食事も何度もあったのです。
その後、震災と呼べるものも何度かありました。それでも東日本までは阪神のときほど大きく報道はされなかったように思います。
さて、東日本大震災の当時私は関東にいたのですが、「あなた方の被害はどれほどなのでしょうか? 道路は寸断されて孤立しているのでしょうか? 乾電池とラジオと懐中電灯やランタンを買い込んでおられますが家庭に電気は届いておられないのでしょうか? トイレットペーパーやティッシュペーパーをそれほど買い込んでなにをされるのでしょうか? 米を何か月分お買い求めになられているのでしょうか?」という状態、つまりは集団心理なのかパニックというのか、実質被害にあっていない方々が不安に駆られて店頭から品物が姿を消すという現象を起こしました。
本来であれば一刻も早く被災地に送り届けるべき物資、食料や燃料までも大都市東京圏で消費してしまったのではないでしょうか。なにしろ、どこの民放だか記憶は定かではありませんが、在東京のキー局で、専門家だかコメンテーターだかが「1~2週間分急いで物資確保しなさい。したほうがいい。いますぐするべきだ。」とのコメントを出していましたからね。当時北海道にいた知人も「テレビで買い込めって言ってたぞ」との助言をくれたほどです。
電話できるようになった後の自宅の様子や自分周辺の状況の記録を細かくとっておくべきだったといまさら思いますが、地震当日は帰宅できず、出先での一晩を過ごし、携帯は東北の実家には当然つながらず、会社との連絡は西に出張していた方とだけ夜半にようやく取れ、不安ながらも一夜を過ごします(しかしテレビの映像は冗談としか思えなかった)。兄の携帯にメールは送信していたのですが、自動受信がうまく働かずに気づいていなかったようです。こちらもそうとは露知らぬ状態でありました。一緒に泊まった別の会社の人と施設の人はスマホ。microUSBの充電器を施設の人は持っており、別の会社の人は充電していたようです。私は自前で充電器を持ち歩いていましたので家庭用の電気が途絶していないため問題はありませんでした(そもそも当時から外出の前日に満充電にするようにしていたため充電状態は問題なかったのですが、念のため再度満充電にします)。夜ご飯は近くのコンビニへ。ただ、帰宅困難になってしまった周囲の公共施設の人が買い込んでしまったためでしょう。食料はすぐ食べられる弁当類、パン類、おにぎり類などほぼ全滅。カップめんもほぼ壊滅でありました。そこは店舗でご飯を炊くスタイルだったようで、しばらく待てばご飯の追加はあったようです。施設の人は先にカップめんを仕入れてきて食べておられました。私は何を食べたか、既に定かではありません。おそらくカップめんだったと思います。辛ラーメンは確かに残っていたかも。でもうろ覚えです。
翌朝、電車もぼちぼち動き始め帰ることになり、駅の公衆電話で実家との連絡が取れ、何とか倒壊せずに家も持ちこたえ無事であることは確認できました。
その後は一刻も早く帰りたいところでしたが、無事は確認できていることと、交通手段が非常に限られていることが代替人のいない週明けの仕事(もっとも無事でなかったら仕事はすっとばして帰っていたでしょうが)によって、しばらく電話のみのやりとりでした。。。(無事じゃない方がいてその方は帰られました)。高速も電車もダメで、下道をいくしかなく、車やバイクが無いし、レンタカーではどうなるかわからないのでもっぱらバスで行き来していましたが、予約でいっぱい状態でありました。実家側の声もあり、苦渋の気持ちもありましたが、不要不急とはいわないまでも私は急ぐことは無いと自ら言い聞かせ、急を要する人に譲る気持ちで帰らずに過ごしていました。
ともあれ、12日は休みでした。情報収集に努めました。当方、南関東は千葉の東部以北などは被害があるものの西はほぼ被害が無いため、流通にさほど問題なかろうと考えていたのです。工場も破壊されたわけでもないのですから。
ところが、その日のコンビニはまあなぜかしら物資はほとんどありませんでした。支援物資にまわしたものもあろうところですが、どうにも買占めがあったように思えました。
13日には米が切れてしまうので米を入手すべく近場を回りましたがあまりにも無く、一方で今しがた買い込んだであろう米20kgほどを持っている人はいましたね。買いたい人にはかわせておけと思いつつも、こちらは明日の米が無いということで少々困りつつ小麦粉を買っておきました。
水団やお好み焼きで過ごす覚悟であります(といいながらコンビニやパン屋さん、弁当屋さんの情勢を見る限り、混乱はありつつも、問題は無いことは確信していたので金はかかるが最悪は加工済み食品であろうかと考えてはいた)。
その後、ドラッグストアで2kgばかり入手。
一方、街のパン屋さんではパンをたくさん焼いており、たくさん買い込んでもいた。スーパーコンビニしかりなんだが、米はともかくパンはもたないだろう。
その日の記録では
水、お茶などの飲料も無くなる。
玉子やらはまだある。野菜も多少減ったが問題なし。乾麺は減った。
とある。
月曜から仕事だが、そのあたりは記録はなく、ただし、おにぎり弁当、パン屋のパンはあいかわらず。弁当屋も問題なく(米は十分ある。混乱するなとの張り紙が弁当屋にあったと思う)。
週末の記録では
21日ぐらいにはとっくにおにぎりや弁当は戻っていた。
相変わらず無いのは納豆、牛乳、玉子、もやし。カップめんやらには数量規制がかかる。
東北は数日前に燃料のお話がでたが、潤沢にはなく、数リットルしか給油できないなど。
3/26までそのような記録があるが、25、26には関東で水買占めについて記載してある。
もう少しあったら面白かったのだろうが、自ら詳細に記録できるところについてはそのぐらいにはなんとなく元通りになりつつあり、またガソリンなどはじっくりガソリンスタンドをみることもなかったこともあり記録がとりにくかったのはある。
25日
本日入荷分の納豆は売り切れました
水は売り切れ続出
そんなものは横目に、ジャガイモやらグレープフルーツやらを買う。
ここ数日で牛乳は数を増やしている。玉子も増えてる。
ほうれん草は一瞬消えたけど復活した。売れてないけど。
牛乳はまだお高いので横目に見ながら豆乳を飲んでる。日持ちがいいけどやっぱ牛乳とは違うな。
※牛乳は宮崎県のものが入荷していたと思う。
26日
土曜日なもんで出かけたら水を買いまくる人多し。
もやし発見、納豆発見。
米も在庫できてるし、カップめんはまだ戻りきらないけどあるっぽい。
一方、22日の記録には実家状況を確認したものが記載してあった。
10リットル給油できた
コープマートはぼろぼろで青空でやっていた
ヨークベニマルは開店前にガラスわれ
ファンズとクオーレはやっていた
クオーレ(酒のスーパーとかそんな感じのやつ)は店前に女性店員が立ち「おにくにゅうかしましたー(ニコニコ)」だったらしい。あとはよくわからないウーロン茶とか。電話の感触だから定かではないが黒っぽい肉といっていたのでおそらくは海外からの応援かなにかだろうということ。
水、食料を入荷し、クオーレは大盛況、飛ぶように売れていたとのこと。
一方で、加工の肉ハムやベーコンなどはさっぱり無い(関東はあったはず。逆に生肉が姿を消していたかもしれない。)。その他加工品も無いということだったか。玉子や牛乳も無い。玉子は後に直売の自販機で買っていたとのことだったと思う。
ただ、納豆、豆腐は町で個人で作ってスーパーにおろしているところがあるためあったという。
新幹線が復旧し、週末帰りが現実的になった4月の記録もあった(バスは予約必須であったし、3連休ならともかく、土日の突貫往復はちとつらいので新幹線復旧まで待ったのだった)。4/22に「先週と今週帰った」との記載あり。
そのときの記憶では、「燃料も無く、家にこもっていたが、茶菓子もなにもなく、梅酒の梅をかじっていた」とのこと。3/22の記録でのようにガソリンは緩和されていた模様。
兄上も新鮮な葉物にうえていたらしく、レタス、キュウリを購入して食べていた。なにしろ畑のものを食えない。レタスキュウリは西日本からのものだった。
その後だったか帰ったときにはワラビを食べたが、灰を使いたくないので(色々濃縮されてやばいって話があった)、はるか十年以上経過している奥深くにしまいこんでいた火鉢に蓄えられていた灰であく抜きをした。ただ翌年以降はワラビは摂取自粛品目に指定されっぱなしである。(他にも春の山菜やタケノコ、秋でいえばきのこ類はほぼ全滅。栗なども相変わらずダメのままである。)
下水道なるものが無い集落で、便所も汲み取りであるので、その辺普段と変わりなく、ガスもプロパン集落なのでそちらも変わりなく、水は井戸の調子が悪くなってしまいこちらはややNG。でも上水道はちょいと前に通っていたので事なきを得たというところ(水道は復旧早かったらしい)。
別の人談では水洗トイレが流せなくても小便ならそういうときは余裕とのこと。大は辛いよなあ。下水がNGというのはちょいと盲点になりがちですので注意したいですね。
また、ガスの復旧が猛烈に遅かったらしく、ただし電気の復旧は早かったとのことで、親類のオール電化になっているところでは風呂に入れるようになったとかいう話も。
その年はその後忙しさに忙殺され体調はかなり崩したりしたが日記はほとんど付いていない。
日記ではなく週記か月記でもあればいいのだが半年ぐらいなにもないのである。
一方ブログにはちょこちょこ書いていてまあ、ろくでもないことを書いたりしている。
東北関東大震災をうけてというのはまじめなことを書いているとわれながら(ほかのとエントリーと比べると幾分)感心する。
その後もたまに書いているのだが、落ち着く前の記述であるにもかかわらず結構その後もだいたい一貫しているようだ。
その後色々とエントリーを書いているが、人口密集な東京圏にいて思ったことは、簡単にパニックになってしまって、どうしようもないから自分は自分で備えておく。これである。
地元は幹線に近いためかなり復旧が早かったが、それでも一時のことでかなり混乱した。一方、東京圏においては、途絶が無いにもかかわらず地元より混乱したかもしれない(ただし、当方家族が結構暢気なものだから混乱していないと聞こえただけかもしれない)。
災害時の避難所に集まるような人、つまりは集落の人がほとんど顔見知りな地元のような場所は相互の援助もおきやすいがそれは人口の非密集地だからであって、顔を知らぬ人が大勢あつまるような密集地ではムードがギスギスしやすかろう。
いたしかたなし、できるだけ自分は自分で備えるつもりで参ろう。
いつだったか、震災前だったかそうでもなかったか、備えのために厳冬登山用のシュラフだとかをおすすめであると書いていた人がどこかにいた(もはやどこのだれかわからぬ)。そういうのが役に立つ人もいるだろうけどそうでもない人も大いにいるだろう。
備えについては何度か書いているがまた改めて考えておきたい。
と、年初から駄文であった。
震災関連についてはDDRダイエット改!(直球ストレート(笑))に結構詳細レポートがあって、備えについても共感を大いにする方でもある。
まさしく実体験であるだけに大いに参考にしたい。
(もっとたくさんこういうのあるんだろうけど)
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